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天性の「美味しい!状態に執着心」がある東京下町に棲息するおばさんのお料理・お菓子・道具・食材の他、散歩の記録を綴った日記です。by真凛馬


by mw17mw

2019年 04月 29日 ( 1 )

昔の巣鴨駅前の話書き忘れを2つ先に

<福福まんじゅうと福嶋家>
私にとって、巣鴨駅の思い出というのは、駅の真向かいにあった「福福まんじゅう」という蒸し器の水蒸気が白く上っているお店。
18歳の時見た時からずっとあったけれど、いつだったか、比較的最近見たら、そのお店がなくなっていた。
そうだよね、巣鴨駅だって、いつまでも木造の昔の商売を続けられる場所ではなくなっているのかもと思い、きっと、商売畳んで土地を売ってしまったのかと思っていたら、この前中山道ウォークの待ち合わせの場所から福福まんじゅうのお店が見えたのだ、あ、まだ、続いていたのだ。
(下の画像のビル一階の一番右、黄色い看板のお店)

案内の方に「福福まんじゅう、古いですよね、まだ、あって嬉しい」と話したら、割と冷めた感じで、「ま、戦後すぐのお店だから、古いと言えば古いけれど...」という反応。
後からの説明を聞くと、巣鴨の中で「古いお店」というと、白山通りに面している福島家という和菓子屋さんなのだそうだ。(場所は変わっているみたいだが)
(江戸時代からのお店で、その頃の逸話は、「福島家(江戸からの和菓子 巣鴨食文化散歩4)」 というブログが見つかった。)

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<徳川慶喜のお屋敷があった町>
徳川慶喜が大政奉還後、紆余曲折の後静岡で30年蟄居した後、東京に戻ることが許され、一番最初に住んだのが、巣鴨駅前だった。
場所から言うと、現在だと、巣鴨信金本店の隣にAPAホテルができたのだが、そこから後ろの広大な土地が徳川慶喜家だったとのこと。

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その話をすると長くなるので、また別に書くが、多分明治30年くらいに巣鴨にお屋敷を持ったのだと思うけれど、そこで、慶喜さんは鶴を飼っていたとのこと。
え、動物園でもないのに、鶴みたいな大きな鳥を飼うなんてやはりすごいと思うと同時に、巣鴨も今から120年くらい前まで、鶴を飼える環境だったことが素晴らしい。
(徳川慶喜は、巣鴨に山手線が通ることを嫌い、4年で、文京区の小日向の方に引っ越してしまい、そちらに30年住んだらしい)

話を巣鴨地蔵通り商店街に戻すと、地蔵通り商店街の真ん中くらいである巣鴨郵便局から、来た道を振り返って写したもの。
半分まで来なくても、少し歩くと、お店と人が少なくなる。

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ここまで来るとき、何でも、地蔵通り商店街では、ときわ食堂が一番人気があって、昔一軒のお店だったのに、隣に空いたお店ができたので、そちらもときわ食堂になったとか。
ときわ食堂って、浅草、入谷、合羽橋本通りにある大衆食堂けれど、それらのお店と似たような内装でありながら、きれいで、にぎわっている感じ。
でも、きっと、出てくるものは、そこそこのお値段でそこそこの美味しさではないかと思ったのだ。

ときわ食堂人気が一番と言うのは、巣鴨地蔵通り商店街が、リピーター客で成り立っている商店街だからこその現象だと思った。
リピーターが、しょっちゅう、歯医者だ、薬がなくなったと言っては通う商店街だからこそ、お昼は安くてそこそこ美味しいものに手が伸びるのだろう。
その点、浅草界隈は、リピーターではなく、常に新しい一見さんが来ることを前提とした観光地だから、ちょっと高くて見栄えするお店がにぎわうのだろう。

もうちょっと歩いて行くと、「充味(みつあじ)」という魚料理のお店が見えてきて、テレビで紹介された写真が沢山貼ってあったのだ。
どうも周囲の人に聞くと、このお店は確実に美味しいらしいが、やはり、地蔵通りの入口からちょっと遠いのが欠点。
いつか行ってみたい。(大正大学の上か、このお店か悩むところ)

<明治女学校跡>
都電の庚申塚駅の近隣は、住所でいうと、「豊島区西巣鴨」らしい。
案内されるがまま、路地に入っていくと、ちょっと小高くなったところに、低層の素敵なマンションが二層ある他、豊島区の特養老人ホーム、区民ひろば西巣鴨第二という施設が揃っていた。
低層の素敵なマンションの隙間から遠くが見えたが、どうも、そこは今歩いてきた道より一段高くなっているのか、下の方に景色が広がっているのがわかった。
で、そのマンションは東大の国際学生寄宿舎なんだって、へ~、良いところに良い物件を持っている東大。
区民ひろば西巣鴨第二と言う建物の前に、「明治女学校跡」という碑があった。
何でも、明治女学校というのは、1885年から1909年まで24年間存在した女学校で、当初、飯田橋にあったものが、1892年に麹町六番町に移転した後、1896年失火で建物を失った跡、この西巣鴨に1897年に移転し、そこでは人が集まらず、閉校が決まったとのこと。
(ということでこの学校の一番輝いていたときは、この地に移ってくる前だったらしい。)
東大の寄宿舎、特養ホーム、区民ひろば、全て合わせて3千坪、全て、明治女学校の敷地だったらしい。

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それにしても、明治女学校って、知らなかった。
今まで東京で一番古い女学校は共立女子で、二番目が文京学院とか覚えていたが、それは、「今でも残っている学校」でということだったのかもしれない。
(と書いたが、その知識は全くでたらめであった、正しい女学校の設立順については、wikiの女学校に詳しいことがわかった。ご興味ある場合は、wikiを参考にしてください)

明治女学校は、生徒も一流なら、先生も一流ですごかったらしい。
自由学園を創った羽仁もとこは、自分の娘を入れたい学校がないから自由学園を創ったとのことだったが、だったら、本人はどこの学校を出たか不思議だったのだ。(調べもしなかったが)
そうしたところ、羽仁もと子さんは、この明治女学校の出身であった。

その他、今回この女学校の紹介をしてくださった方によると、教頭の若松賤子(わかまつしずこ)という人の本を読んで、憧れ、樋口一葉が小説を書くようになったとか、(原文のままではないが)聞いて、がぜん興味が湧いた。

若松賤子さんって、32歳の短い人生の中、波乱万丈な生涯を送りながら、全く外国に行ったこともないのに、西洋人の英語塾で、英語も外国の習慣を覚えて、小公女とか小公子を翻訳したとのこと、びっくり!(そういう翻訳って、村岡花子さんが先駆者ではなかったのだ、明治の頃、既にそれができた人がいたのだ。
簡単に書きようがないのだが、会津藩の藩士の子供として生まれ、会津戦争で敗れ、母を失い、父は行方不明の身の上のところ、横浜の商人の養女になり、横浜で、フェリス女学院の前身である英語塾で教育を受けたとのこと。
その後、キリスト教徒にもなり、結核にもなり、結婚もし、子供を3人もうけて、しかも、明治女学校の教頭もし、翻訳及び文学活動をしていたとのこと。
確かに、明治の女、しかも会津の女、すごい...。(もっと、書くと、夫であった巌本善治のwikiを読むと、彼女の生んだ三人の子の娘にバイオリニストの巌本真理がいたりして、またまたすごいと思う)

詳しいことはまだわからないが、明治以降、日本の才女というと、樋口一葉が上げられるけれど、この若松賤子さんという人ももっと取り上げられて然るべきと思うが、余りに短い人生、自分で考えた文学より翻訳が良かったということで、取り上げにくかったのか?
今回、この若松賤子さんを知りえたことが一番の収穫。


by mw17mw | 2019-04-29 23:58 | 東京都内のお散歩・見物 | Comments(4)