1月4日に、街歩きの会の七福神巡りがあった。
昨年の北千住七福神巡りがとても良かったし、今年は、以前住んだことがある小石川の七福神巡りだったので、参加させていただいた。
撮影した画像を数えたら83枚なので、2回に分けて、前半は、茗荷谷の駅前から茗荷坂を通って、拓殖大学の方に行って、播磨坂まで。
小日向の方は探索したことがあったけれど、茗荷谷駅の周囲は、知っていそうで知らない場所だったので、ガイドの方の説明で、一人だったら、通り過ぎて記憶に残らないような場所の、色々な歴史や特徴を教えていただき、面白かった。
まずは茗荷谷駅前にあったおんぼろの同潤会女子アパートが取り壊され、ずっと工事中だったのが、完成していた。
それが、ただのオフィスビルだったのだ、つまらない。
きっと女子寮に住んでいた方たちは皆独身でもう相当の高齢だったろうし、賃貸だったから、皆、そこを明け渡したら、後は家主の裁量でオフィスビルにされたのであろう。
戦前、封建的に、親に無理矢理結婚させられそうになった女性たちがこのアパートに逃げ込んで、住んでいたような話を新聞で読んだことがある。
そういう時代があったことも、もう段々忘れられるのだろう。
で、茗荷谷で集合した後、20~30人の参加者だったと思うが、ぞろぞろ歩き出したが、どうも春日通りが馬の瀬のように高くなっていて、そこから南側に下り坂が続くよう。
ガイドの方の説明によると、茗荷谷には、財閥の三井さんのお屋敷だったところが2か所もあるらしい。
それだけでも、お屋敷町とも思うし、小さなお家も、大きなお寺も多く、拓殖大学もあり、江戸時代、切支丹屋敷という切支丹信徒を閉じ込めておくところもあったということで、とても複雑。
まずは、林泉寺(しばられ地蔵)→深光寺(恵比寿)→藤寺・藤坂→徳雲寺(弁財天・男)→播磨坂
この中で、藤寺というのが、徳川家光が鷹狩の帰りに寄って、気に入り、藤の花がきれいだったので、「藤寺」という名前にするようにと言ったとか。
それにしても、徳川家って、どんだけ鷹狩が好き?
雑司ヶ谷の墓地のところにも、「鷹狩の場所」であったみたいな掲示板があったし、品川の御殿山も、徳川家康が鷹狩に行ったときに休む場所でしょう、その他にも、目黒のサンマという落語も、お殿様が鷹狩の帰りに目黒でサンマを食べて美味しかったという話だし、昨年末に訪れたおとめ山も徳川の狩場だったよう、また、茗荷谷の裏に、鷹狩の帰りに寄ったお寺があったのだ。
(江戸中に、徳川家の鷹狩の狩場は、7つあったとのこと)
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