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天性の「美味しい!状態に執着心」がある東京下町に棲息するおばさんのお料理・お菓子・道具・食材の他、散歩の記録を綴った日記です。by真凛馬


by mw17mw

小学校の同窓会、最初で最後の参加

昨日は、台東区のまちづくりの講義を聞いた後、例えば、またバインミーを食べたり、新規開拓をしたかったのだが、午後から、出身小学校の同窓会に出る予定だったので、諦めた。

小学校の同窓会、最初で最後の参加_d0063149_2223348.jpg自慢ではないが、小学校の同窓会なぞ、一度も出たことがなかった。(学年別の同窓会ではなく、出身者全員の同窓会)

しかし、この同窓会会長が6年間ずっと同級生であった人物で、家が近所で、たまにお店に買いに来て、「二年に一回の同窓会、たまには出ろよ」と誘ってくれていた。(勿論その人とも、13年くらい前、私が会社を辞めて家にいるようになるまで、何十年も会ったことがなかった。)

でも、私は小学校の時代、楽しい思い出なんて一つもなかったし、嫌な思い出ばかりだったから、ずっと断っていたのだが、今年は、何度も断ってばかりいても悪いし、「ま、たまには出てもいいか」と思えたのだ。
で、会費が4千円と豪華なので、「最初で最後だからね」と念を押して、出席した。

小学校の同窓会、最初で最後の参加_d0063149_22234716.jpg私の母校は、「台東区立小島小学校」と言い、今は学校自体はなくなっているが、建物は、台東デザイナーズビレッジとして残っているので、その中の体育館が会場であった。

同窓会会長に聞いたら、全部で60数名集まったとのことだが、後でもらった書類に記載されている同窓会の役員・幹事の数を数えたら、50名弱、来賓が17名とのことだったから、役職もなく、自発的意思で出席したのは、もしかしたら、私だけだったのかも知れない。(笑)
同じ学年の出席者は、その同級生だった同窓会会長と、違うクラスだった副会長のみ。

ビュッフェ形式で食事を取って、適当な時に帰ろうと食べていたら、元同級生の同窓会会長が、小さなおばあさんを私のところに連れて来て、「ほら、低学年の時担任だった、S先生」と紹介してくれた。

懐かしい、その方に、確かに昔の面影を発見した。
先方も私のことを覚えていてくれ、暫し、私の手を握ってくれた。

その先生は、一年から三年まで担任だったのだが、その後も転勤せず、最後の6年生まで同じ学校にいたので、6年生までは接触があったが、その後は一回も会ったことがなかった、ということは、約半世紀振りの再会。

昔話に弾んだと書きたいところだが、やはり、もう半世紀前のことなので、細かい話はしなかった。(私は自分の小学校の頃のことを結構覚えているが、先生は忘れているようであった。そりゃそうだと思う、私には唯一担任の先生だったが、先生からしたら、40人以上の担任であり、その後、数十年色々な学校で担任を持たれていたのだから)
先生が、細かい話を忘れているということは本当に良いことで、勉強はそこそこだったけれど、色々問題が多かった私の細かいことを全く思い出せないようだったので、助かった。(笑)
(私は自分の嫌な思い出を口に出したくなかったし、向こうは忘れいていて、めでたし、めでたし)

初めて先生に出会ったとき、私は7歳で、先生は30歳くらいだったと思う。
この人に、「あいうえお」とか「1+2=3」とか、漢字を教えてもらったのだ....。
その先生は、きちんとした先生で、厳しくて、私は色々なことで怒られたり、ぶたれたこともあった。
(今回、その当時のことを色々教えてくれたが、その頃、先生は、新潟で教員を10年した後、東京都の試験を受けて合格し、上京した時だったそうだ。きっと理想に燃えていたのだ。)

小さい頃、先生と言うのは、「先生」という役割の人にしか思えなかったけれど、今、色々な社会経験をした後で考えてみれば、まだ、職業を持つ女性が少なかった時代、教育を受けて、職業婦人としてやっていこうとしていたのだから、S先生は、あの時代の「教育熱心な家庭に育ち、職業を持つことを許された進んだ教養のある女性」だったのだ。(小学校1年生の私は、当然だが、そんなことを思ったこともなかったのだ、ただの厳しい性格の人だと思っていた。)

先生と色々な話をした。(どちらかというと、先生の話を聞いた。)
先生は、私の担任である間に、確か結婚されて名字が変わったのだ。
その先生のその後の職業生活の話はそうでもなかったが、結婚生活の話を聞かされて、とても不思議な気がした。
半世紀前、先生は先生でしかなく、先生がプライベートな話をすることはなかったのに、今は、先生のそんな話を聞くことになるなんて、不思議な気がした、私も大きくなったのだな~って。(笑)

(また、あの厳しかった先生にも人間らしいプライバシーや苦労があったのだという感じかな?今の時代だったら、先生が自分の家の話をすることもあるだろうけれど、昔は、プライバシーというか私生活を全てどこかに隠しておいて、全人格で「先生」であろうとしていたように覚えている。)

先生は、一番上の子を一週間で亡くしてしまったけれど、その後二人のお子さんに恵まれ、今は、そのお子さんたちも結婚され、孫もいるそうだ。(ずっと共働きをされて、定年まで頑張られたそうだから、大変だったろう)

結局、その先生と話し込んでいたので、会の最後までいてしまった。
会の最後は、小学校の校歌を皆で合唱して、鳥越神社の地域にある学校だから、三本締めをして散会になった。

で、その小学校の歌詞は下記のとおり。
小学校の同窓会、最初で最後の参加_d0063149_2224869.jpg
一番の「大東京」という言葉、三番の中の「国の誇りを胸に持ち」なんていう歌詞からすると、戦前に制定された校歌かしらね?
歌詞はとても格調高く良い歌詞だと思うのだけれど、一番の出だしが曲者で、「大東京のまんなかの~」と、6年間歌わされたから、私は相当大きくなるまで、ずっと自分の住んでいるところが「大東京の真ん中」だと思っていた。
でも、絶対、真ん中ではない、真ん中よりちょっと外れているのにね。
ま、でも、我が母校も10年くらい前に廃校になり、この歌も、この同窓会以外で歌われることはないから、ま、いいか。(と書いたが、今、作曲家作詞家を検索したら、両名とも、Wikiに載っている程、有名な方であった。)

先生とは、年賀状をこれからは交換するために、住所を教え合って帰って来た。
とても懐かしく心温まる時間を持つことができた。
by mw17mw | 2012-11-12 22:23 | 日常生活 | Comments(0)