ボランティアの憂鬱
2012年 02月 09日
彼女は、ちょっと普通より繊細な感じもしたが、ごく普通に感じの良い女性で、都内在住、ご両親と同居で、お勤めをされながら、現在、月1回、福島へボランティアに行っておられるとか。
その話を聞いて、何だか、そういう意図があって私に会われたのではないとは思うのだが、自分が勝手に、「私は何でボランティアに行かないのだろう?」という問題を突き付けられたような気がして、そして、その答えがうまく見つからず、何と言うのだろう、心の奥底に、どんよりした部分ができてしまった感じ。
色々な言い訳はある。
私は年で、実際ボランティアに行っても、体力なくて役に立たず、反って迷惑をかける可能性が大。
それに、多分、雑魚寝になるのかな?
自分がお行儀よく、いびきもかかずに周囲の人の安眠を邪魔しないで、寝られるかどうか自信がないし、だいたい、2日続けて、できあいのお弁当を食べて、胃がやられた経験があるし、何て言うか、そういう非常時の生活に向いていないタイプなのだ。
また、我が家・我が店を背負っていて、責任ある立場にあるし、決して今の商売がうまく行っているわけではなく、今後どうしようかなと自分の人生を色々考えるので精いっぱい。
すなわち、ごく普通の平凡の生活をして、休みの日には遊んだり気分転換をするので、精一杯で生きているのだ。
その他、我が家の地下や母の部屋なぞ、まだまだ父母が使っていて今はただ保管してるだけの生活道具や家具が沢山あり、それを私がそのうち全て片付けて、廃棄しなくてはと思っている。(今は寒いので、手が付いていないだけなのだ)
今後、私はどんどん老齢化していくので、片付けるのなら、まだ身体が動く今がチャンスなのだ。
暖かくなったら、手をつけねば。
(そして、遠くない将来、私の死んだ後、甥たちが片付けに時間を割かなくていいよう、自分の身辺整理も考えなくてはと思う)
私自身は大災害に遭った経験はないけれど、家全体では、祖父母の時代に、関東大震災と東京大空襲で二度家を焼かれ、祖父母と父がとても苦労したという話は聞いているし、確かに、今の我が家、そういう大災害に遭わなかったら、もっとストレートに幸せだったろうになとか、私が育った家庭はストレートに幸せなものではなかった原因のそもそもは、そういう大災害に遭って、財産をなくしたことにあるのかと思うこともしばしばある。
だから、私の中には、「そういう災害に遭う不幸は、短期で終わらないで、ずっと長期(50年~100年)にわたるものだ」という実感もある。
また、上野公園で、沢山のホームレスの人たちが牧師さんのお説教を聞いているところを見ることがある。(その後、食料が配給されるのだ)
そうすると、助けてほしい人たちは、遠くに行かなくても身近にもいると思ったりして...。
と言う風に、何だか、心の中でもやもやしている。
福島で大災害に遭われた方々への同情心は勿論あるけれど、身体と心が動かない。
だからと言って、私に心がないというわけではないと思うのだ。
あ、でも、実際にボランティアに行かれている方に比べたら、やはり、大したものではないのだろうが、そう、自分を低く下げたくないだけかも知れない。
でも、「ボランティアに行くかどうか」だけで、その人がどんな性格かを判断できないしね...。
そこのところのもやもやが晴れない。
良くわからないよ~。

