悲しみを抱えながら生きる
2011年 03月 14日
また、被害に遭わなかった方でも、被災地の出身である方々の心配はいかばかりかと、その心情をお察しいたします、きっと、生きた心地がしないことでしょう。
地震の被害の凄まじさ、町ごと波にさらわれるなんて、また、手を繋いで逃げたのに、つい手が離れて生き別れになった方々、本当に何を言って慰めていいやら、わからない、ただただ、隣に寄りそって、その人の悲しみを吸い取ってあげたいという気持ちが湧く。(そんな力が私にあればだが)
3月10日が東京大空襲の日で、次の日が、「東北関東大震災」の日になってしまった。
天災、人災、戦争、交通事故、色々な形で、突然、神様から生きるのを突然ストップされるのが人間の運命かも知れない。
今回、地震の被害に遭わなかったのも、遭ったのも偶然。
私だって、今回は被災を免れたけれど、明日、突然、何らかの形で、例えば交通事故で、神様から生きるのをストップされるかも知れないのだなと思う。
そう考えると、生きるのを許された一日いちにちを大切に生きて行くしかないのかなと思う。
こういう悲惨な親族の死に直面した人間というと、以前にも書いたかも知れないけれど、我が父を思い出す。
小さい頃、「おじいちゃんはいつ死んだの?」と聞くと、「戦争中、でも病気で死んだのであって、戦死ではないよ」としか聞いていなかった。
本当に、おじいさんが亡くなったのが、東京大空襲の最中に、一晩中、町を守ろうと消火活動して疲れ切って病気になったからと聞いたのは、相当私が大きくなって、多分30歳頃だったと思う。
父は、「薬もなく、死んで行くのを見守るしかできなかった」と淋しく言った。
そう、この言葉をすらっと涙なしで話せるようになるまで、祖父他界後、40年くらいの時間が必要だったのだ。
本当に、どうしようもない悲しみが癒えるまでそのくらいの時間が必要なのかも知れない。
また、そういうどうしようもない悲しみは、言葉にできないものなのだと理解した、言葉にできた時点でようやく少しは整理がついたということではないかと感じた。
(それまでは、そのことを語り出すと、泣いてしまったり、感情が昂ぶるから、語らなかったのだろう)
24歳で戦争で家が燃やされ、祖父を失った父が頑張れたのは、多分、助けてくれるというか、一緒にやっていこうという同じ悲しみを共有した家族がいたことが大きいと思う。
また、祖父が亡くなった後すぐに、目黒の伯母が初めての赤ちゃんを連れて、実家に戻ってきたことも大きいのだそうだ。
家中がぱっと明るくなったそうな。
目黒の伯父は兵隊に取られていたし、父は、自分が頑張って赤ちゃんを育てなくてはと思ったのかも知れない。
祖父が亡くなった悲しみの次に、生まれたばかりの赤ちゃんの登場に皆が夢中になったとか。
良く「光の方を見て進もう」というけれど、父は、祖父を失った悲しみ・悔しさを心に閉じ込めて、生きるために生まれた赤ちゃんなどの明るい方を見ながら、生きて行ったに違いない。
そう、悲しみは心に閉じ込めていたから、そして、前向きに生きたとしても、傷が癒えるまで40年くらいかかったのだ...でも、その生き方で良かったよねと思う。
そういう人生だったので、我が父は大きいことはできなかったし、父の人生は、平凡な酒屋のおじさんの人生以外のものではなかったかも知れない、それでも、大変だったろうなと思う。
もっと要領の良い生き方もあったかも知れないけれど、そういう悲しみを心に抱えながら、文句も言わずに前向きに生きていたことを考えると、私からすると立派な生き方だと思う。
そういう生き方をすると、死んだ後に何が残るかというと、子孫たちに「悲しみは心に閉じ込めて、明るい方を見ながら生きる姿」を教えてくれると思う。
父の一生を考えると、不幸に負けなかった人生だったと思う。
書き込み有難うございます。うちの父は目黒の伯父さんのような人格者ではなかったけれど、私に、若い時から死ぬまでの間、一生懸命その父や祖父のようになろうと頑張る姿を見せてくれました。
我が家の方は地震はま総じて大したことはなかったです。目〇の方は大丈夫ですか?
地震の日、きっと目〇さんは勤務先から自宅まで走って帰ったのかなと想像していました。(笑)
では、また、落ち着きましたら。
お互いの家のお墓、無事で本当に良かったです。
仏壇は大丈夫でしたか?私は今それが一番頭が痛いことです。
マラソンで帰らなかったのですが、日頃鍛えていると、今後もいざという時に役に立ちそうですね。

