2017年 11月 28日 ( 1 )

大田区立龍子公園

龍子公園と名付けられた旧龍子の住宅のあった場所は、敷地770坪あり、その中に、昭和20年8月13日の空爆で吹っ飛ばされた住居の跡にできた池や、龍子さんのアトリエ、客間・仏間などがある他、草木が沢山植えられた庭がある。(美術館の方は570坪と教えてくださった気がする。)

しかし、龍子は、どうやってお金を稼いで家族を養って暮らしていたか以前から不思議だったのだが、そのうえ、こんな770坪の土地や上物を建てるお金を稼いだわけで、余計不思議だった、画家ってそんなに儲かるの?
それについて、説明の方によると、「若い時、会場藝術に行く前に、小さな絵を沢山描いては売って、稼いだらしい」とのこと。
そのお金を溜めて、この土地を買い、家を建て、会場藝術を始めたとのこと、ふ~ん、それでもすごい。
お宝探偵団なぞで明治から戦前くらいのその当時は無名であった画家の話が出ると、中々認められないまま亡くなったり、大抵は貧乏だったり、病気になったりする場合が殆どで皆不幸であるが、龍子さんは、本当に自分の才能と腕だけで、これだけの財を成したから、すごい。
説明の方が、普通の人より、気持ちが強い人であったと評していた。
(そうそう、夏に龍子に関するEテレの番組を見たら、「画家としては珍しく病的なところがなく、完全に健全な精神の人であった」と言っていたかな?
家庭を愛し、絵を愛し、精神的に病的なところや弱いところがない人だったとか、言っていたような覚えがある)

戦前の住まいがあったところは、終戦の2日前に空爆で全滅、龍子はその時不在で無事であった。
その爆撃の惨状を見て、菜園に爆弾が落ちた風景に置き換えて「爆弾散華」という絵を描いた。(でも、リンクした記事を読むと、使用人二人が爆死しているのだが、芸術家は悲惨なものを悲惨なまま描けないのだろう。あくまでも美しさの中で悲惨さを暗示するのが精いっぱいなのかも。)
その家は建て直されることなく、全てを片付けた後、空き地にしておいたら、水が出て、空き地は池になってしまったとのこと。
「爆弾散華の池」という立札が立っている。

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その後、勿論、家の中には上がれなかったが、広いアトリエや客間、仏間を外から案内していただいたが、どこもかしこも、手を抜かない造りで、この家を作ったり、手入れをした大工さんがこの家に携わることを嫌がったと言うが、わかる気がする。
こういう芸術家が自分の家を作る時、全く妥協をしなかったろうし、少しでも良くしようと注文が多かったと思う。

そういうお話を聞いて、この家に対する龍子さんのこだわりを見ていたら、芸術家が思う通りに作った住居と言うことで、谷中の朝倉彫塑館が頭に浮かんだ。
で、家に帰ってから調べたら、朝倉文夫は、1883年(明治16年)3月1日 - 1964年(昭和39年)4月18日、川端龍子は、1885年(明治18年)6月6日 - 1966年(昭和41年)4月10日)と、二つ違いで、同じ年で亡くなっていて、本当に同世代、同じ東京で活躍していたのだとわかった。
二人とも地方から東京に出てきて、彫刻と絵画と分野は違ったけれど、若いうちから才能を認められ、成功した芸術家。
朝倉文夫は、確か、美術学校の教授だったから、あの谷中に住み、狭い土地(と言っても、台東区の中のお屋敷の土地としては広いが)を色々工夫して暮らしたのかな?
その点、川端龍子は自由だったから、広い敷地を求めて大田区に来たのかなとか想像した。
狭い台東区の土地に住み、3階建ての屋上に庭がある洋館・和風建築も3階建てを造り、猫を愛した朝倉文夫と、広い大田区の敷地に平屋建ての和風建築を作って住み、犬を愛した川端龍子、何だか、対象的な気もするが、芸術家が妥協しないで作ったお家はどちらも魅力的すぎる...。

しかし、770坪の殆どは植物が生えているお庭であり、羨ましいほどの風情。
客間から見える庭は、桜と梅の木が見え、秋には紅葉も楽しめるように、木が植えられているとのこと。


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これは、確か、アトリエと客間がある建物かな?
多くの人が入るように設計されていない770坪の敷地なので、全体が写るように写真が撮れないところが残念。



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下の画像の右側は、アトリエは板の間で、床に紙を置いて中腰で描くのかな?
「岡本天心」という映画でも、弟子たちが皆、板の間だったか、畳の間だったか、忘れたが、皆、床に向かって絵を描いていたっけ、日本画は、座ったまま床に向かって描くものなのかも。

この庇は西側のものなので、西日が入らないように、庇が深いとのこと。
この編み方は、網代編み?(いい加減です)


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客間の奥に明り取りのガラスがあった。
この時、説明者一人に対し、参加者が多過ぎて、ここらへんになると、説明が聞こえなかったことが残念。
また、もう一つ聞き損ねた説明は、確か、洋画家を目指していた龍子が若い時にアメリカに渡った時、アメリカで、「平治の乱絵巻」を見て、感銘を受け、日本画に転向したということ、チラッとしか聞けなくて残念。


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元々信心深い人だったのか、古い仏像を安置して、朝夕に龍子が拝みに来ていた仏間。
何でも、龍子は、6人の子どもに恵まれたが、うち3人を先に亡くした上に、奥さんも先に亡くなっているとのこと。
襖は、現在は、イミテーションではあるが、俵屋宗達作のもの。

そういえば、朝倉彫塑館も数年前の耐震工事で改悪されてしまって、今は説明がないのだけれど、昔は、「朝倉文夫が朝な夕なに「仁・義・礼・智・信」と名付けた庭の池の巨石を眺めては自分を戒めていたと書いてあったが、やはり、この世代だけではないかも知れないが、芸術家は、見えないところで、朝な夕なに、自分を戒めながら、良い作品を生み出しているのだろう。


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ということで、30分くらいかけて、庭内を案内していただいた、もっとゆっくり見たかったから、また、ケララの風Ⅱのカレーを食べがてら出かけよう。


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by mw17mw | 2017-11-28 15:36 | 東京都内のお散歩・見物 | Comments(0)