2017年 10月 18日 ( 1 )

入谷・根岸 下町歩きツアー 1/3(主に、子規庵・鶯谷駅)

わ~い、実は、7月にジャパネットが、一日限定で特価で販売したエアウィーブの敷布団を注文したのだが、お届けが3か月後という条件だった。
それが...それが...とうとう今日届くと、佐川からメールが入ったのだ、すごく楽しみ!

---本題です---

先日、紹介した「good day 入谷 2017」という催し物 のページに、「入谷・根岸 下町ツアー」が10月15日に開催され、参加者を募集していたので、応募して、参加させていただいた。

鶯谷駅で午後1時に集合。


d0063149_17415750.jpg


主な立ち寄りスポットは「子規庵(正岡子規が過ごした住居)、旧陸奥宗光邸(西宮邸。住宅用として建てられた洋館では都内最古の現存例のひとつ)、矢島寫眞館(1918年開業)、そら塾(昭和初期の三軒長屋アートスペース)、金杉通り、下谷の路地など」で、案内してくださる方は、根岸地域が「奥村雅夫さん(根岸子規会会長、ご実家は根岸にある創業326年の豆富料理「笹乃雪」)、入谷地域が「中村出さん(たいとう歴史都市研究会理事、台東区根岸の矢島寫眞館の建物保存に携わる)」とのこと、期待できる。

それが前日から、まさかの一日小雨の天気予報、そして、そのまま、小雨の中決行された。(涙)
ま~、小雨だったので、そんなに辛かったりはしないけれど、何せ、片手は傘でふさがっているので、所々、名もないところで素敵なところがあっても、カメラが出せなかったり、地図を広げることができたなかったことが残念であった。

最初に、明治35年の根岸界隈の地図に見て歩く予定の場所を含む現在の有名な場所の位置ををかき込んだものを配ってくださった。
案内役の奥村さんから、「皆さんを明治35年頃、子規が亡くなった頃の根岸に案内したいので、大きな真っすぐの道路があったら、それは明治35年くらいにはなかったものなので、自分で景色から消してください」と告げられる。
今では、鶯谷駅に近い根岸は、変なホテルばかり乱立しているけれど、江戸時代から明治の中期の頃はもちろんそんなものはなく、線路で上野の山と分断されていない低地で、江戸のお金持ちの別荘地だったし、文人が多く住んでいる地域だったそう。

結論から言うと、とてもためになる良い会であったので、きっと、来年も同じ催し物が開かれるとしたら、参加されると良いと思う。
(入谷・根岸は、無名ではないが、谷根千ほど、マスコミに取り上げられることが少ないと思う)

私は、ずっと昔、個人的興味で何度か自転車で探検したことがあったのと、今、根岸のタジマヤに通っているので、だいたいの地理はわかっている程度の知識。(でも、そこから深く入るような材料がないのだ)

何が良かったかというと、案内してくださった方が、本当に地元を愛し、長年研究されていて、どこに行っても、細かく色々なことを説明してくださること、その知識たるや、舌を巻いてしまうような、知らなかったことばかり。(根岸担当の奥村さんは、正岡子規研究家でも根岸を研究して20年、古地図とにらめっこすることが趣味で、まだまだ、根岸と正岡子規の研究者としては初心者と謙遜されていた)
とても、ためになったし、楽しかった。

まずは、鶯谷駅北口を出発して、笹の雪のところで、説明を受けた後、笹の雪の前からぐるっと回って、根岸三平堂へ。
故林家三平家は、結構路地裏にあってわかりにくいが、大きくて立派。


d0063149_17420442.jpg
そこをまた裏の方に回ると、子規庵や書道美術館なぞがある他、普通の家でも趣のある建物があったり、素敵な路地裏が存在していた。
子規庵は、勿論、子規存命中のものではなく、その後、2,3度建て直されたが、東京大空襲は免れたのに、その1か月後の空襲で燃やされてしまい、戦後、弟子たちが昔通りに建て直したものとのこと。


d0063149_17421010.jpg
中に入ると、5分くらいのビデオを見ることができ、その後、奥村さんが色々説明してくださった。

正岡子規の庵で、やはり、俳人仲間というのだろうか、正岡子規を慕って通ってくる多数の若者たちとの集合写真がとても印象的だった。
病気でも、正岡子規の文才と性格で、これだけの人に慕われていたのかと、それだけで、正岡子規の素晴らしさがわかるような写真であった。

正岡子規が伏していた部屋は、庭に面していて、テレビで描かれるとおり、部屋の先にヘチマがぶら下がっていた。


d0063149_09055798.jpg

奥村さんの話だと、正岡子規が生きていた頃、子規庵の周囲は、平屋ばかりだったので、正岡子規が庭に目を向けると、そこより遠くの方に上野の山の緑も見えた筈とのこと。
だから、子規は、療養中、自分の庭だけではなく、その先の上野の山の碧を楽しんでいたらしい。

子規庵は、縁側から庭に出られるので、庭を歩いてから、裏口から出てきた。

d0063149_09060018.jpg

裏口から出たところで、また奥村さんが説明をしてくれた。
子規庵があるところの横は、あの加賀百万石の前田家の敷地3千坪のお屋敷と庭だったそう。
(子規庵の大家さんも前田家だったのだって)
何でも、江戸幕府が終わり、前田家も本郷の上屋敷から出なくては行けなくなり、上屋敷の機能をいくつかに分け、明治5年に、隠居所の機能を根岸に持って来たとのこと。(その3千坪は、農地だったものを買いとったらしい)
その半分が隠居所で、残りの半分が使用人の家だったとか。

で、そのうち、隠居人たちも他界され、隠居所を置いておく必要がなくなり、お殿様の土地三千坪をそのまま買う人もなく、その土地は、買ってくれそうな結構身分の高い元武士の屋敷に合わせて、大きな区割りで売却されたとのこと。
それをまた時代が経ってから売却するときに一つの土地が広いので、個人で買うには大きすぎ、旅館やホテル業者に売れたらしい。(こういうホテルは盛り場の隣の駅にできるものとのことで、鶯谷駅は、上野駅の隣だから、そういう業者には恰好の場所だったのだ。←その事情は武家屋敷が沢山あった湯島も同じ)

へ~、まさかまさか、鶯谷駅近くの根岸に、前田家の屋敷があったとは、想像したこともなかった。

その他、本当に奥村さんは詳しいので、「鶯谷という地名がなかったらしいですが、何で、鶯谷という駅名になったのですか?」と聞いたら、明治35年の地図の中から、ちょうど上野の山と低地の境あたりに、「鶯町」という場所があったことを教えてくれた。
その鴬町のところに、木の絵が沢山描いてあったから、小さな林だったのかも知れない。
そして、そこが上野の山に対して、低地であったので、鶯谷という名前になったのかもね。
wikiの鶯谷に、「江戸時代に寛永寺の住職として、代々京都から皇族が駐在していた。その一人である公弁が、元禄年間に「江戸の鶯はなまっている」といって当時の文化人・尾形乾山に京都から鶯を運ばせて、この地域に鶯を放し、鶯の名所になったことに由来する。」と書いてあるが、その鶯を放した地域が「鶯町」かも)

今回、このツアーは、「入谷・根岸 下町歩きツアー」という名前であったが、実際は、今の住居表示の「入谷」には行かなかった。
というのは、入谷というのは、江戸から明治にかけては入谷村とか、入谷田圃というところだったので、古い物が何もないようなのだ。
今の昭和通りは、奥州街道の裏街道とのことで(ん?書いている私も意味は良くわからないが)、その両側は、町だったみたいで、都心に近い方が「坂本町」、北の方に行くと「金杉町」という名前だったのに、明治以降何度かの住居表示の変更を重ねるうちに、昭和通りの東側の住居表示は田圃から取った「入谷」に統一され、西側は「下谷」という地名がつけられたそう。(下谷という地名は元々はその近所にはなく、元々は現在の上野広小路あたりをいう地名であったとのこと)

今の入谷という地域が発展したのは、いつからかは不明だが、相当新しく、田んぼが埋め立てられ、人家ができてきて、金美館通りのような商店街が賑やかになった頃なのだろう。

そうそう、それに、今の住居表示の根岸という地域は、南北に細長くて、鶯谷駅前から三ノ輪駅の方まで5丁目まである広さなのだが、江戸時代からの遺物を語るとしたら、やはり、都心に近い鶯谷駅近くの上根岸・中根岸だけのよう。

正岡子規が、元々文人が好んで住む土地柄であったことが気に入って移ってきたとのことだが、結核の療養に向いた、自然豊かで空気のきれいな地域であったことは間違いない。

[PR]

by mw17mw | 2017-10-18 09:09 | 東京都内のお散歩・見物 | Comments(1)