寛永寺根本中堂と徳川歴代将軍霊廟 特別公開

この土日は2日とも都内各所を有意義に散歩してきた、全て楽しかった。

本来なら、土曜日の行動から話すべきなのだが、そちらは分けると4回にわたってしまうので、短い日曜日の催し物参加の話を先に書く。

8月だったか、台東区の広報で、「寛永寺根本中堂と徳川歴代将軍霊廟 特別公開」の募集を発見、応募したら、当たり、その開催日が昨日の日曜日であった。
実は、数年前も応募したけれど外れてしまった、覚えがある。
その後、1年に一度の募集をすっかり忘れていて、全然応募しなかったのだが、今年はラッキーにも台東区の広報を見た時、その募集が目に入ってきたので、応募し、当たった。
Wikiの寛永寺によると、「通常は一般公開されていないが、5名以上の団体に限り予約制で毎月3日間程度公開されている。また台東区役所が主催する特別公開が毎年秋に1日だけ行われている。」とのことで、団体を組まない限り、一人、二人で徳川家の霊廟をお参り&見学できるのは、この台東区の年に一回の催し物だけのよう。)

台東区役所が募集するけれど、別に台東区民に限るという縛りはないようで、昨日、寛永寺の集合場所に全員集まったところで、台東区民は手を挙げてと言われたが、台東区民でない人も多そうであった。

で、この特別公開の感想を先に言うと、とても良かった。
説明してくださったお坊さんが世襲の若い方だったのだけれど、とても話術が上手だったし、性格が明るそうだった。
(今まで、寛永寺のお坊さんというと、「怖そう」と思ったけれど、この方は、とてもフレンドリー)

ここにだいたいの昨日の記録を書くけれど、建物の外観は撮影可だけれど、根本中堂の中は、寛永寺さんの方針で撮影禁止、徳川の歴代将軍のお墓も、徳川家のプライベートな墓地なので、撮影禁止とのことで、画像が撮れなかったのは残念だけれど、ま、それが常識だろう。(と言いながら、帰ってきてから、ネットで検索すると、お墓の画像なぞ沢山出てくるのでびっくり)
d0063149_12085264.jpg

今は、寛永寺は江戸時代は、上野の山丸ごと寛永寺で、30万5千坪だったところ、徳川幕府の時代が終わって、確か、現在、3万坪の小さなお寺になったとか。(3万坪は墓地を入れて)

今回特別公開への参加人数が80人ということで、二班に分けられ、私は一班、それぞれ、説明のお坊さんの後を付いて行き、説明を聞きながら見学。
「根本中堂集合→葵の間見学→靴を履いて徳川家霊廟→根本中堂の中を自由に見学」とのことだったが、一班は時間の関係で最後の根本中堂の中の見学が端折られてしまったのは残念だけれど、墓地から帰ってきたら、予定の終了時刻を過ぎていたので、致し方ないと思った。

最初に根本中堂にて、寛永寺の歴史や徳川家康の幼少のころからの菩提寺や宗派、昔の上野の山などについて、簡単に説明があった。
寛永寺は、徳川家の菩提寺として有名だけれど、実は、菩提寺として創建されたものではなく、「天海大僧正が、1625年、徳川幕府の安泰と万民の平安を祈願するため建立」したものとのことで、お坊さんは、「徳川家のお寺というのは間違いで、万民の平和を祈願するためのお寺でありますですので、皆さま、もっと何度でも寛永寺に来てください」と強調されていた。(そうそう寛永寺の創建は、家康の死(1616年)以降)

(そういう話の中で、あんみつのみはしは、店の前に堀があって、そこに三本の橋が架かっていたから、「みはし」というのは有名な話なのだが、その橋は、実は「将軍用」「大名用」「一般市民用」の三つの橋だったそうだ)

まずは、葵の間見学。
根本中堂の横から出て裏手に行くと渡り廊下があり、そこを渡る。
d0063149_12085251.jpg


渡り廊下を渡ったところが「大慈院」
d0063149_12085716.jpg


その中の葵の間は、幕末、徳川慶喜が謹慎をしたという部屋で、八畳くらいの二間続きの和室であった。
ずいぶん手を入れられているのだろう、古い感じがなく、新しいきれいな部屋であった、しかし、八畳二間程度という空間の狭さが、徳川将軍のいる場所にふさわしくないことだけは良く分かった。
やはり、江戸から明治に代わるとき、「大政奉還」をしているのに、官軍からの徳川幕府への攻撃は相当に執拗であったとのこと。

葵の間見学の後、本堂の方に戻って、靴を履いて、墓地の方へ。
墓地のところに古そうな立派な門があったけれど、何でも、上野の山が戦場になった戊辰戦争の時でも、古くからの徳川家墓地の施設は被害を受けなかったのに、第二次世界大戦の空襲では相当の痛手を受け、殆ど建物は焼けてしまい、残ったのはその赤い門だけとのこと。
(その近くに、徳川家が法要を上げるための建物もあったが、それは、戦後の建て直しとのこと)

この赤い門は、江戸時代のもので、戦災に負けずに残ったものとのこと。(ここから先、撮影は不許可)
当然と言っては当然なのだけれど、ここから先は墓地であるので、電線、電信柱、柵等全然ないのだ、そこも魅力。
d0063149_12085865.jpg


ここの石垣もそうだと思うのだが、明治以降、勝海舟は、徳川の墓所が荒らされないようにと、墓所の周囲に石垣の塀を巡らせたとのこと。
(勝海舟って、本当に、幕臣で、徳川家のことを第一に考えた一生だったのだろう)
d0063149_12085819.jpg


そんなことを聞きながら、最初には、徳川綱吉さんのお墓へ向かった。
徳川家の墓地はもちろん広くて、全体の配置はわからないけれど、樹木がたくさんの雑木林の中に、6つの将軍の墓地は点在しているのだと思う、。
私の勝手な感想だが、その雑木林は、江戸時代から続く上野の森の自然を残しているのではと思わせる雰囲気、表側の上野の公演だって、樹木がたくさんあるのだけれど、公園として、整備しているから、やはり、本当の自然ではない感じ。
今まで、不忍池に面している斜面(精養軒の裏の方)が一番上野の山の自然が残っていると聞いていたが、この徳川さんの霊廟には負ける気がする。
しかし、そこが雑木林のようと言っても、徳川の将軍の霊廟だから、道はきれいに確保されているし、ゴミや枯れ葉なぞは掃除されており、手入れの行き届きながらも、鬱蒼とした雑木林のようでとても良かった。
(ただ、惜しむらくは、少しは離れているが、上野の山の斜面の下の方を、JRの電車が走っているので、遠くの電車の音がうるさい。しかし、これが、徳川幕府が負けたということだろうなとも思う。もし、勝っていれば、墓地の近くに電車の線路を引かなかっただろう)

寛永寺には、6人の将軍のお墓があるとのことだったが、今回は、綱吉・吉宗家定(篤姫の夫)と篤姫のお墓を案内してくれた。
その他、徳川慶喜は15代目で、大政奉還をして、徳川宗家の家督を養子に譲った。
その後、徳川宗家は、存続し、現在は、18代目とのこと。
そうして、谷中の墓地には、徳川さんの16代、17代の方のお墓もあり、案内してくださった。(江戸時代は、最初は、増上寺だけが徳川さんの菩提寺であり、寛永寺は、祈祷所の位置づけだったとのこと。しかし、4、5代の将軍が「寛永寺に埋葬を」と遺言を残して、それが実行されたが、6代目以降は、葬儀や埋める場所に関する遺言は公表されず、交互に増上寺と寛永寺に葬られるようになったとのこと)

また、綱吉・吉宗さんのお墓は、単独であり、正室のお墓も谷中の墓地にはあるのだけれど、将軍とは全く別の場所とのこと、江戸時代、夫婦で並んでお墓が作られることはなかったらしい。
ただ、大河ドラマで人気であった篤姫は、亡くなったのが明治時代ということ、江戸から明治の激動の時期に、徳川宗家を残すために並々ならぬ努力をしたとのことで、家定さんと並んだところに、お墓を作られることが許されたとのこと。

お坊さんの話によると、将軍が亡くなられたときの埋葬方法なぞはトップシークレットで、誰も見たこともないし、寛永寺の場合、お墓自体は、戦争で損傷されなかったので、開けたことがないのだけれど、増上寺は、太平洋戦争で被害を受けたことなどがあり、他の場所への改葬が行われ、徳川将軍の墓を開けて整理したことがあり、その時の記録によると、古文書に書かれていた通りの姿で埋葬されていたとのこと。
(何でも、将軍の亡きがらは、衣冠束帯のいでたちで、あぐらというか、足の裏を合わせた座り方で、江戸城の方を向いて座っているとのこと。篤姫さんも、十二単を着ているとのこと。<座り方の説明はなかった。>)
それは、テレビで見たことがあった、将軍は死しても、江戸を守るのだと。
テレビの篤姫で、確か、家定が危篤状態から、篤姫は家定に会えなくなり、亡くなってから相当後になって、確か、昔風の木の家庭用の縦長の湯船みたいな形の棺桶と対面したのが今生の別れとして描かれていたと覚えている。
あ~いう棺桶の中で、正装で座らされているのだと思い、やはり、将軍というのは、死しても、横になることを許されず、永久に「世の中を守るトップリーダー」の役割を捨てられないのだと思った。

しかし、徳川家とのお付き合いが長い寛永寺のお坊さんから、色々な将軍たちのエピソードを聞くのはとてもためになったし、巷では、有能な将軍、無能な将軍と色々に評価されるが、どの人の一生も全て大変だったろうな、その上、死んだ後も、衣冠束帯で座った姿勢で江戸の街を守るのだから、偉い人(将軍)に生まれついたら、本当に死んだ後も将軍なのだ、有能だろうと無能だろうと、どの人の人生も大変だったろうなと思った。(笑)

その後1班、2班が揃った後、案内してくださったお坊さんにお礼を言って、解散。
実は、寛永寺に行く途中で、芸大美術館で、「驚きの明治工芸」展ポスターを見て、「あ、見るのを忘れていた」ことを思い出した。
それがその日が最終日、また、寛永寺の特別公開が予定通り3時半で終われば、楽勝と思ったのに、実際に解散した時間が4時ちょっと前、美術館は5時までなので、慌てて、お寺の写真を撮り、急ぎ足で芸大美術館に向かったら、何とか展覧会に入ることができた。
テレビでよく取り上げられる明治工芸を集めた清水三年坂美術館程、華やかなものはなかったが、本当に細かい仕事がきちっとされた作品ばかりであった。(製作者の名前はあったが、現在誰が所有しているかが書いてなくてつまらなかった)
「昔の人は、良くこんな細かい仕事ができる」と驚き。

という充実の日曜日の午後、何も飲まずに、お墓巡りや美術館の展示巡りをしたら、喉が渇いて、最後、湯島のマンマミアでジェラートを食べて家路についた。

私としては、徳川家を尊敬できる人には、とてもお勧めの特別公開と思う。
[PR]

by mw17mw | 2016-10-31 17:43 | 東京都内のお散歩・見物 | Comments(0)